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8月23日(土)①11:30 ②14:30 ③18:00 神戸朝日ホール アクセス
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「キノコ雲はわが町の誇り」
平和で美しい郊外(サバービア)で、
その歴史を誇る人々、逡巡する人々が交差する―
広島、長崎への原爆投下から80年。
アメリカの“核”を担い続けてきた町の知られざる姿
平和で美しいアメリカの典型的な郊外の町、ワシントン州南部にあるリッチランド。人々は町を愛し、隣人を愛し、仕事に誇りを持って暮らしている。応援する地元高校のフットボールチームのトレードマークは“キノコ雲”と“B29爆撃機”、チーム名は「リッチランド・ボマーズ」。そう、リッチランドは、1942年からのマンハッタン計画における核燃料生産拠点「ハンフォ ード・サイト」で働く人々とその家族が生活するために作られたベッドタウンなのだ。1945年8月9日、長崎に落とされた「ファットマン」のプルトニウムはハンフォード・サイトで精製されたものだった。終戦後は冷戦時に数多く作られた核兵器の原料生産も担い、稼働終了した現在はマンハッタン計画に関連する研究施設群として国立歴史公園に指定され、アメリカの栄光の歴史を垣間見ようと多くの観光客が訪れている。
『オッペンハイマーの』のその後―
アメリカは“核”とどう向き合ってきたのか?
その罪と痛みを背負うのは誰なのか?
人類の“業”が重層的に浮かび上がる
叙事詩的ドキュメンタリー
リッチランド高校の“キノコ雲”は町のいたるところで掲げられ、「原爆は戦争の早期終結を促した」と誇りを口にする人々。一方で「川の魚は食べない」と語る者たちは、核廃棄物による放射能汚染への不安を今も抱えながら暮らしている。町の歴史を誇りに思う者がいる一方で、多くの人々を殺戮した“原爆”に関与したことに逡巡する者もいる。そしてまたハンフォード·サイト自体、ネイティブアメリカンから“奪った”土地だったのだ。様々な声が行き交う中で、被爆3世であるアーティスト·川野ゆきよがリッチランドを訪れ、町の人々との対話を試みるのだが...。多くの犠牲のもとで、多くの命を奪い、存在そのものが人類の脅威となってしまった“原爆”。『オッペンハイマー』のその後、アメリカは“原爆”とどう向き合ってきたのか? その罪と痛みを背負うのは誰なのか? 近代アメリカの精神性、そして科学の進歩がもたらした人類の“業”が、重層的に浮かび上がる叙事詩的ドキュメンタリー。
1945年7月16日(広島投下20日前)、アメリカのニューメキシコ州ソコロの南東48キロメートルの地点にあるアラモゴード砂漠において、人類史上初の原爆実験「トリニティ実験」が実施された。この原子爆弾はガジェットというコードネームをつけられ、爆縮レンズを用いたインプロージョン方式のテストを目的としたものだった。
8月9日に長崎に投下された原子爆弾「ファットマン」と同様の構造をしていたが、ファットマンのように空中からの投下ではなく、鉄塔上に備え付けられた状態で爆発実験だった。
実験成功の後、トルーマン大統領わずか3週間後、1945年8月6日~9日に広島・長崎に投下することを決定した。
その後、日本では「ファットマン」(模擬原爆)の投下訓練を行われた。7月20日から8月14日まで49個の投下訓練が日本国内で実施され、神戸は4個が投下された。