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500年にわたり行方不明だった英国王リチャード3世の遺骨発見の立役者となった女性の実話をもとに撮りあげたヒューマンドラマ。
フィリッパ・ラングレーは職場で上司から理不尽な評価を受けるが、別居中の夫から生活費のため仕事を続けるように言われてしまう。そんなある日、息子の付き添いでシェイクスピア劇「リチャード三世」を鑑賞した彼女は、悪名高きリチャード3世も実際は自分と同じように不当に扱われてきたのではないかと疑問を抱き、歴史研究にのめり込むように。1485年に死亡したリチャード3世の遺骨は近くの川に投げ込まれたと長らく考えられてきたが、フィリッパは彼の汚名をそそぐべく遺骨探しを開始する。
解説 機関誌4月号より
たったひとつの真実を信じて
2012年、500年間行方不明だった英国王リチャード三世の遺骨がイギリス中部の都市レスター市の駐車場から発見された。
発掘を指揮したのは、有名な歴史家や考古学者ではなく、アマチュアの歴史愛好家の女性でした。当時、このニュースは世界中を駆け巡り、驚きと歓迎で迎えられました。
本作は、この実話を基に、フィリッパ・ラングレーとリチャード三世の人生を通して、「正当に評価されることがなかったとしても、自分に正直に懸命に生きる多くの人々」の存在を知り、敬意を払うことの大切さを描きます。
突然降りてきた強い思い
英国、スコットランドの古都エジンバラに住むフィリッパは会社員として働きながら、元夫と協力してふたりの男の子を育てている母親。持病の筋痛性脳脊髄炎は理解されにくく、職場での待遇にも影響を与えている。生活のために仕事を続けているが、ストレスは溜まる日々だ。
ある夜、学校行事で長男と共にシェイクスピア劇を鑑賞した。
「背中が曲がった醜い体で、歩けば犬も吠えかかる王」が主人公の「リチャード三世」という題目。
彼女は、俳優の演技に感嘆するが、シェイクスピアが描いたリチャード像に違和感を覚える。そして、植え付けたられたイメージだけで声高に語る人に強い嫌悪感を持つ。
そんな彼女の前に美しいリチャード三世が姿を表す。
そこから、フィリッパの予想のつかない旅が始まる。
リチャードを探して
イングランドの歴史上最後に戦死した王としても有名なリチャード三世は、シェイクスピア史劇で英国王室もっとも冷酷非情の王として描かれ、その遺体は川に投げ込まれたと信じられてきた。
フィリッパは、歴史書を買い求め、図書館に通い、愛好家に会って「リチャード三世協会」に入会する。判官贔屓というか、世間では悪名高きリチャード三世にもファンはいるようだ。メンバーたちは、世界中に存在し、リチャード三世を愛し、研究をし、語り合う。フィリッパは、彼を知れば知るほど、死後川に捨てられたとは信じがたく、遺骨がどこかに埋葬されていると考えるようになる。
レスターでの歴史講演会でリチャード三世のミトコンドリアを発見したジョン・アッシュダウン・ヒルと出会う。(ちなみに彼の研究から俳優のベネディクト・カンバーバッチはリチャード三世の末裔とされる)
フィリッパは、ジョンが伝えた小さいヒントから、レスターの町を歩き、市の社会福祉課駐車場の「R」の文字に運命的なものを感じる。
リチャードの「R」なのか?リザーブの「R」なのか?
誤解されやすいふたり
フィリッパは、インフルエンザ感染から慢性疲労症候群とも呼ばれる病気を発症する。新型コロナウイルス後遺症と似ていて、全身倦怠感や広範囲の筋肉痛が主な症状。彼女は周りに理解されにくい身体的な病を持ち、その事で心に負担を抱えて生活してきた。
リチャード三世は、プランタジネット朝・ヨーク家最後の王である。ボズワース・フィールドの戦いで死亡するまで、イングランド国王でアイルランド領主であった。
彼の死後百年以上たった後、シェイクスピアは「リチャード三世」を書き上げる。彼は、リチャード三世をせむし(脊柱後湾症)だったとし、身体が極端に小さく足を引きずっていたと表現した。その身体的キャラクターは強烈で、彼の残酷な性格と相まって悪評に包まれた王として人々の記憶に残ってしまった。特に兄王の年若い王子をロンドン塔に幽閉して殺害したとされるエピソードは絵画にも描かれ、リチャード三世のイメージを決定づけた。一方でセリフが多く、カリスマ性があるキャラクターは多くの名優が演じて人気の演目になっていった。
現代のシェイクスピアファンの多くが、彼は歴史家ではないし多くの作品はフィクションであると語ったとしても、シェイクスピアの「リチャード三世像」の印象は根深い。
多くの人はシェークスピアがいうことに間違いはないと思う。
フィリッパは、彼のイメージはテューダー朝の世になった時に吹聴されたもので、多くは事実ではないと認識している。
後に、歴史的な真実は次々に明らかになっていった。近年書かれた伝記では、リチャード三世は聡明であり勇敢で、忠誠心にあふれ正義感の強い人だったという証拠があるとされている。
王であった時の治世や戦争での功績は認められず、肖像画も描きかえられ、リチード三世は何百年も誤解され続けていた。
思いつづけること
フィリッパは、思い続け、行動し続け、訴え続ける。
「リチャード三世協会」に入り、愛好家たちの話を聞き、講演会に行っては講師に異論を唱えながらも見下され、小さなコネを利用して手作りのケーキを焼いてレスターに乗り込んでいく。
直感を信じて語り行動すればするほど軽んじられるのに、自分を信じて揺るがないフィリッパを応援したくなる。
レスター大学はイギリスでは有名な大学で、町では大きな影響力を持つ。フィリッパは、発掘資金獲得のために、市や大学関係者の前で駐車場発掘への協力を願い出る。ここまでくれば、彼女はもうただのアマチュア歴女ではない。
脚本・製作を務め、本作でフィリッパの夫役を演じる俳優スティーヴ・クーガンは、新聞で出来事を知り、インスピレーションを受けたという。「小さきものが巨人を打ち負かす」サクセスストーリーをユーモアをまじえてヒューマンに描きたいと思ったと語る。
共同脚本のジェフ・ポープは、「これは実話です。男性中心の社会で女性たちが軽視され、無視されていること。ひとりの名もなき人間が、誰に『ノー』と言われても諦めないこと。そして、人から言われたことを絶対的な真実だと思わないことについて描きたかった」と語っている。
舞台出身の演技派俳優サリー・ホーキンスによってフィリッパは、親しみが沸く主人公となった。風変りだが情熱的で、誠実で嘘がない人。時として、子どもの存在を忘れるほど没頭しても家族に応援してもらえるママ。
サリーは、フィリッパについて、「世間は素人だと軽視しましたが、彼女は驚くほど教養があり賢く、決してアマチュアではない。例えるなら水のような人。何年もかけて静かに穏やかに事を進めていったのです」と語る。
後半、大学やレスター市の関係者とのやり取りに腹が立つ人も多いと思うが、新しい発見をわが手柄にしたいとするのは世界中どこでもあることだ。
実際、リチャード三世の遺骨が発見されたあと、彼女は物事の中心や表舞台から取り残された。
フィリッパにとって、リチャード三世は白馬に乗った王子様だ。
そして、そばにいてくれる心の相棒だった。だから強くいられた。
この人のためなら、なんでも出来る。自分が名誉を得ることよりも、彼が正統に評価され安らかに眠ることを一番に思った。
他のために行動することで、自分が高められる。彼女は幸せな時間を持ったのではないだろうか。
(宮)
背景 機関誌4月号より
シェイクスピアの「リチャード三世」
「やっと忍苦の冬も去り、このとほり天日もヨークの身方(略)一族のうえに低く垂れこめてゐた暗雲も、今は海の底ふかく追ひやられてしまった。頭上には勝利の花環が輝き(略)ああ、おれといふ男は、造化のいたづら、出来そこなひ、しなを作ってそぞろ歩く浮気な森の精の前を様子ぶってうろつき廻るにふさわしい粋な押出しが、てんからないのだ。美しい五體の均整などあつたものか、寸足らずに切詰められ、ぶざまな半出来のまま、この世になげやりに放りだされたといふわけ。歪んでいる。(略)」
シェイクスピア(1564~1616)作の戯曲「リチャード三世」の開幕のグロスター公リチャード、のちのリチャード三世(1452~1485)の長い冒頭の独白です。これから始まる「悪党宣言」ともいわれる野望とおのれの身体的な劣等感をも表白しています。そして、ラスト「馬をくれ!馬を!代わりにこの國をやるぞ、馬をくれ!」ボズワースの戦いでリッチモンド伯、のちのヘンリー七世の軍勢に敗れたリチャードの台詞です。
リチャード三世の悪人説はこのシェイクスピア劇の舞台の演出がすぐれていたこともあって以後の悪人説が流布するおおきな要因となりました。ラストの戦いの前では殺した亡霊たち、ヘンリー六世、ヘイスティングズ卿など王になるために亡き者にした幽霊たちが登場します。とくにロンドン塔で亡くなったといわれているエドワード四世の子どもたちが12歳と9歳であったことからよけいにリチャードの残虐性が際立ったこともあると言われています。
では、シェイクスピアの「リチャード三世」(参考文献一冊目の解題によると1592年から93年に執筆されて94年に上演されたのではないかと推察しています。リチャード三世没後約100年になる)は、どんな資料を参考にして「リチャード三世」を書いたのか。ホリンシェッドの「年代記」(1577)とホールの「年代記」(1542)、さらにトーマス・モアの「リチャード三世」(推定で1513)などといわれています。ただ、リチャード三世は薔薇戦争(1455~85)最後のヨーク朝の王(約二年間)で次のテューダー朝はエリザベス一世(1533~1603)へと続く絶対王政全盛期を築く王朝となります。こうしたことから時の権力への「忖度」やフィクションも含まれているのではないか、ということで以後にモアの「リチャード三世」などの見直しを含む新たなリチャード像などの歴史書が出版されます。
ジョージ・バックの「国王リチャード三世の歴史」が早くも1619年に出版されています。以後、18世紀から現代まで悪人説も含めて見直しを主張する出版が続いています。そしてミステリの形態で1951年に「時の娘(The Daughter of Time)」が出版され、見直し論争に一般的な大きな影響をあたえます。
ジョセフィン・ティの「時の娘」
本名はエリザベス・マッキントッシュ(1896~52)、ペンネームとしてジョセフィン・ティで主に推理小説を、ゴードン・ダヴィオット名で史劇「ボルドーのリチャード」(1933)や多くの戯曲などを書いています。「時の娘」は推理小説として書いた警部アラン・グラントものの一つで、アームチェアー探偵ならぬベッド探偵、内容としては「歴史ミステリ」として高く評価され英米だけでなく日本の推理小説にも影響を与えました。高木彬光著「成吉思汗の秘密」はその一つです。
ベッド探偵というわけは、病院のベッドに釘づけされて入院生活を過ごすグラント警部が部下や友人が差し入れてくれた歴史書をとおして、リチャード三世は、ほんとうにロンドン塔の幼い子どもたちを殺害した悪人なのか、その真実に迫ります。そのきっかけは一枚のリチャード三世の肖像画写真の「顔」に惹かれたことから警部にとって病院生活の退屈な時間を過ごすかっこうの題材となります。
日本での翻訳は1954年にハヤカワ・ミステリの一冊として村崎敏郎訳(小泉喜美子改訳1977年)で出版されています。
ちなみに『ロスト・キング 500年越しの運命』のモデルとなったフィリッパ・ラングレーさんも、少し前に何世紀も不明であった王子たちの行方を追求した「The Princes in the Tower:Solving History‘s Greatest Cold Case」(2023)を出版しています。また、ラングレーさんが入会した「リチャード三世協会」のHPの「about us」には「時の娘」の出版やローレンス・オリビエの映画「リチャード三世」などによって50年代に「新たな関心が高まった」と書かれています。
(研)
薔薇戦争
ランカスター家(赤薔薇)とヨーク家(白薔薇)の王位をめぐる争い。最終的にフランスのノルマン・コンクエスト(フランスからノルマンディー公ウィリアムが攻め込む)の系統のプランタジネット家(ランカスター家)がボズワースの戦いでヨークのリチャード三世を倒してヘンリー七世がヨーク家のエリザベスと結婚してテューダー朝を築きます。
参考文献
シェイクスピア全集(一)福田恒存訳「リチャード三世」(新潮社 1970年)/小谷野敦著「リチャード三世は悪人か」(NTT出版 2007年)/石原孝哉著「悪王リチャード三世の素顔」(丸善プラネット 2013年)