2022/9月例会『83歳のやさしいスパイ』

解説

人間の温かさと人生の重さにホロリ…
南米チリ発 ユニークなドキュメンタリー

 8月、9月と例会作品に「スパイもの」が並びました。
 スパイを題材にした映画といえば、『007』、『ミッション:インポッシブル』などが思い浮かびますが、それらとはまったく違う、アクションとは無縁の、『83歳のやさしいスパイ』。これがなんと、実際の新聞広告から生まれたドキュメンタリーなのです。

*あらすじ*
 「高齢男性一名募集。80歳から90歳の退職者求む。長期出張が可能で、電子機器を扱える方」という不思議な新聞広告を見て、何人もの男性がA&A探偵事務所にやってくる。探偵のロムロ(元インターポールの肩書を持つ)が面接し、選ばれたのは、83歳のごく普通の男性セルヒオ。
 チリの首都サンチアゴ郊外にある「聖フランシスコ特養ホーム」に入居している母親が虐待されているのではないかという調査依頼があり、そのターゲットの様子を密かに克明に報告する、というのが彼に与えられたミッション。
 携帯電話の扱いひとつ不慣れなセルヒオが、隠しカメラを駆使し、暗号を使っての情報員活動。ホームの入居者は女性40人に対し男性4人。新入りのセルヒオは注目され、スパイとして目立ってはいけないはずなのに、一番の人気者になってしまう…。セルヒオは無事にミッションをやり遂げることが出来るのか!?
(本稿はラストに至る展開に触れています。気になる方は鑑賞後にお読みください)

チャーミングな魅力を放ち活躍するおじいさんスパイ
 新人スパイとなった83歳のセルヒオ・チャミーさん。佇まいがダンディです。4か月前に妻を亡くして張り合いのない生活を送っていた彼は、採用されて張り切って仕事に取り組もうとします。
 彼には子供が3人、孫が5人います。年老いた父親を案じている娘ダラルは父の仕事の内容に不安を口にしますが、「いろいろ頭を使って大変だが、心はすっきりしている。大丈夫だ」という父の言葉を聞き、涙ながらに送り出すことに同意します。
 怪しまれずに入所はしたものの、「似ている人が4人もいて…」とターゲットのソニアが判らず、ホーム中を探し回ってそれを特定することからスタート。写真撮影やメール送信などに悪戦苦闘する姿に、入居者や施設の職員にバレるのでは?と、報告を受けているロムロは頭を抱え、観ているこちらはハラハラしながらも、クスっと笑ってしまいます。
 ソニアを確認できましたが、彼女は口数があまり多くないため、少しずつ日常会話をして聞き出すことにしたセルヒオは、ホーム内を飄々と歩き回り、他の入居者たちとも知り合っていきます。
認知症の症状があり、「家に帰りたい。ママ、迎えに来て」と門扉の内から外を見つめ、時々問題行動を起こすマルタ。施設に入居する人たちに自作の即興の詩を詠んで聞かせてくれるペティタ。記憶障害があり、自分の体験した出来事や発言、家族の記憶が抜け落ちてしまうルビラ…等々。
 彼女たちの話を親身に聞いてあげたり、困った人に手を貸してあげたりする時に交わされる言葉から、セルヒオの人柄が感じられ、魅了されます。
 ある時には、紳士的な態度のセルヒオにまるで十代のように恋心を抱き、ストレートに打ち明けたベルタに、「妻がまだわすれられません」と穏やかな口調ながら毅然とおことわり。
 またある時は、目眩がすると不安がるルビラに「泣きたいときは、泣いていいんですよ。心が落ち着きます」としばらく傍についていてあげます。ホームにある記録で彼女の家族がこの一年面会に来ていないことを調べ、家族の写真を手に入れてほしいとロムロに頼みます。
 そして、改めてターゲットのソニアに目を向けると、彼女にも面会に訪れる人がいません。
 セルヒオは、「私の考えなど無用なのは分かっている。それでも言わせてもらいたい…」とことわったうえで、彼が導き出した真実を報告します。
 「入所者はみんな孤独だ。孤独ほどつらいものはない。ホームには犯罪など一切なかった。ターゲットは手厚い介護を受けている。このような調査は本来依頼人が自ら行うべきだ。そうすれば母親にもっと寄り添えるだろう」

密着カメラが捉えた老人ホームの日々と人生模様
 マイテ・アルベルディ監督は、探偵の助手として働いた経験から、老人ホームの内部で調査している探偵が存在することを知り、「身内が老人ホームでどんな生活をしているか調べてほしい」という入居者の親族からの依頼が多いことに着目しました。
 ホームにはセルヒオがスパイであることを明かさずに、人間関係を撮るということで許可を得て、2週間前からホームに入り、入居者や職員がカメラを意識しなくなるくらい(撮影クルーが映り込んでいる場面も出てきます)仲良くなってから撮影へ。
 設定だけは、製作側が用意し、その先は何が起こるか分からない。面接で選ばれた者が入居者としてホームに入り、カメラがそのミッションに密着、外野からは見えない「当事者」の風景を覗き見る感覚です。
 3か月間の撮影中、食事や日向ぼっこ、体操や歩行訓練など日々の生活のほかに、誕生会や人気コンテストのような行事、最期を迎えたペティタを見送るやるせない模様などとともに捉えられたのは、入居者たちの本音であり、心の叫びでした。
    *    *
 「映画を観て、親や祖父母に連絡したいと思ってもらいたい。そんな映画です」(―監督)
 高齢者の介護問題はここ日本でも決して他人事ではなく、避けて通れないテーマです。介護する方もされる方もそれぞれの立場、言い分があります。でもそれだけでは片づけられない心の問題=孤独をどうしたらいいのか…。
 人と距離を取るソーシャルディスタンスの時代に、家族を大切にして、心から人と触れ合うことこそが生きる希望につながるのだと気づかせてくれる味わい深い作品です。

(ゆ)
参考 作品オフィシャルサイト