2021年2月例会『あなたの名前を呼べたなら』

【解説】

監督の様々な思いをラトナに託して描く

 監督は、インド、ムンバイで生まれアメリカで教育を受け、助監督や脚本家としてヨーロッパで活躍するロヘナ・ゲラ。今作を作ろうとしたきっかけは「インドの階級について考えてきました。ずっと身近に住み込みのお手伝いさんや、ナニー(注①)がいて親しい仲でしたが待遇の違いは明らかでした。この力関係に悩み、理解できませんでした。渡米し帰国した後も状況は変わらず、インドの階級問題を恋愛物語を通して探求できないか、と考えたのです」
 監督の故郷、インド最大の都市、ビジネス機会が豊富でファッション関係のビジネスも多く、仕事や良い生活水準を求めて国内各地から人が集まるムンバイで物語は動き出す。

ラトナの人生
 ラトナは、嫁いで4か月、19歳で未亡人になった。ラトナは知らなかったが、相手は病身でダウリー(注②)が不要だったという。父親は、娘が若くして未亡人になる可能性があるのに結婚させたのだろう。未亡人は不吉な存在「アマンガリ」とされ、社会に歓迎されず人目につかないようにすることを余儀なくされる。儀礼への参加も排除される。妹の結婚式で実家に帰ったラトナも、式に参列できず写真にも写れない。また、未亡人は装身具を外さなければならない。ラトナが休暇中の実家からムンバイへ戻るとき、バッグから腕輪を取り出し腕にはめた。実家へ戻るときは腕輪を外していた。未亡人になったラトナは、婚家からすれば「口減らし」であっても、「農村部の未亡人にとって都会は素晴らしい場所になり得る。自分の過去を離れ自由を手に入れることができる」と、監督の言うように、ムンバイでメイドとして働き始める。アシュヴィンの婚約者にもらった腕輪をして。新婚家庭で働くはずが、婚約者の浮気で破談になり、新居に戻ってきたのは傷心のアシュヴィン一人。
 ラトナは、妹の学費の援助をしている。学ぶことでしっかり生きていけるようにと願ったに違いない。その妹が学業より結婚を選んだ時、一度は落胆するが、自分の想いの押しつけになっていたのではないかと相手の気持ちも思いやる。ラトナ自身も、ムンバイで将来への夢をはぐくんでゆく。

アシュヴィンの人生
 アシュヴィンはアメリカでライターをしながら暮らしていた。小説家を目指していたのだろう。ところが、兄の死により呼び戻され、建設会社の御曹司としての仕事を始める。映画の世界は別にしてヒンドゥー教徒の実生活では、カースト内での縁組が一般的であり、欧米で働く頭脳流出者であっても、自分のカースト内でパートナーを求める事例が少なくない。アシュヴィンも階級にふさわしい婚約者がいた。しかし、婚約者の浮気の発覚により破談になる。アシュヴィンは階級や体面を重んじる家族に復縁を説得されるが、アメリカで暮らしアウトサイダーとしての視点も持つアシュヴィンはそうした風潮に違和感を覚えていた。仕事でも、父親のやり方になじめない。

ふたりの人生
 アシュヴィンを気遣いながら身の回りの世話をしているラトナが、ある日「裁縫を習いにゆきたい」と、アシュヴィンに願ったことから、二人は距離を縮めてゆく。アシュヴィン「アメリカではライターをしていた。小説も半分。」それを聞いて「どこでも書けるのでは?」とラトナ。
 裁縫教室へ通い、生き生きとしているラトナに「夢は仕立て屋?」尋ねるアシュヴィンの言葉に、差別的なニュアンスが含まれているのに気づき「ファッションデザイナー、無理だと?」と答える。翌日「誰にでも夢をかなえる権利はある」とアシュヴィンは謝る。ラトナは、裁縫の成果としてアシュヴィンの誕生日にシャツを贈る。父親に褒められたというアシュヴィン。誰が作ったかは、誰にも言えないし知られると二人ともに困るのだが。二人がキスした夜、ラトナが言う。「サー、今夜のことは忘れて」「金持ちの人はなんと楽なのかと。でも、サーも望んでも他の場所には行けない」ラトナの言葉や行動は、アシュヴィンにも自分を見つめさせたのではないだろうか。
 アシュヴィンの母のパーティの手伝いの後、「なぜ、(メイドたちが食事している)キッチンへ?(現れたのか)恥ずかしかった」とラトナ。アシュヴィンは友人に非難され、ラトナも同僚にからかわれる。どちらの階級においても許容されない。結婚してムンバイに住む妹のもとへ行くとラトナは出てゆく。自分の立場も相手の立場もふまえて、誇りをもって一人で立つラトナはしなやかでつよい。階級や因習に縛られて自由に行動できないのは、制約の大きさや種類は違っても、ラトナもアシュヴィンも同じかもしれない。
 アシュヴィンも父親に「NYに戻るよ。彼女を愛している」と告げて、旅立つ。
 ラトナにかつてアシュヴィン宅で、出会ったファッションデザイナーから連絡が入る。妹のために作った結婚衣装を持参し見せると、仕事をもらう。アシュヴィンの紹介と思うが作品が認められたからドアが開いたのだ。ラトナは今までのように夢に向かって進んでいくだろう。自分の足であるいてゆく、それこそがラトナの手にしたかったものものだから。

街にあふれる“カラフル”
 ラトナが出かける布市場にあふれている大胆な色づかいの反物や裏地、いろんな付属品の色彩豊かな楽しさ。ラトナが毎日着ているサリーもいろんな模様や、多彩な色使いで楽しませてくれる。仕事の時もエプロンなど使わないのだ。何着ものサリーを着こなしていて、こんなにたくさん持っているの?と驚いた。サリーは一枚の布なので洗濯もしやすく、たたむとかさが低くなり、重ねて収納でき合理的だとも思う。

注① ナニー 主に住み込みで、母親の代わりに子供の世話をする職種。
注② ダウリー 女性が結婚に際して必要な結婚財。現金・貴金属・不動産・家財道具など。娘が生まれた時から準備すると言われるほどである。ダウリーを工面できずに独身のままの女性も存在する。
(点子)
参考 「新版インドを知る事典」(山下博司・岡光信子)、インターネットほか

ひとくち感想

◎大変よかった  ◯良かった  ◇普通  ◆あまり良くなかった  ☐その他

カースト制が若者をこんなに縛りつけているのが慣習。インドをよく表した映画だ。もし、二人がニューヨークで生活することは可能か。そんな先のことは現在では打ち破っている例はあるような気がする。(男 79才)
心洗われる映画でした。あんな素晴らしい男と女が偶然出会い、あんな悲しくも粋な別れがあるとは…。出来ればもう一度青春にもどり追体験してみたいものだ。(男 79才)
ナマステ。カースト制が根強い田舎出身のラトナが未亡人として19才からの一生を独立した仕事を夢みて力強く働く彼女の生き方に感動を覚えました。(男 77才)
インドのお国柄の一旦が見えてよかった。その国々、時代・時代でいろんな世界があることがわかる。そして自分がラッキーだったことも。(男 76才)
衣装、色がすてき!! 話が感情をおさえて知的に作られていたと思う。(女 76才)
インドのカースト制度はどうして変わらないのだろうと、常々、疑問に思っていた謎がこの映画で解けました。監督の思いがひしひしと伝わってくる、とてもいい映画でした。(男 73才)
題名が見ることを、そそる場合が多い。感動になるかは最後まで見るしかないけど…。今回もなになに、どんな風に、興味津々です。日本の民法、別姓ではないが、どう名前を呼ぶか!! 相手の人権を尊重すればどうしたらいいか、どんな風に呼んだら気持ちを伝えることができるのか、やっぱり、いろいろな経験が大事かも。今、73歳になるけれど体験は少ないかもね。人と人、さまざまの経験は自分にとっていい場合だけでないけれど…。せまいけれど…。これからもいろいろな人と出合いたいし、そんな場所へ出向きます。記憶がてんでバラバラ気味なんです…。かなし。コロナ禍、たのしみ事が少ないので映画大好き人間!(女 73才)
ラトナの着ている服にとても見入ってしまった。どの服も美しかった。ムンバイに3年程前に行った事があるが、映画の中と違和感はなかった。自然な中に大切な事、人と人の愛情の在り方に感動した。(女 73才)
インド映画というと踊りと音楽でにぎやか?と思っていましたら、しっとり良い映画でした。カースト制のきびしさが、こんなにも残っている、驚きです。最後、彼女がだんな様といわず、名前を言った事で希望が見えたなと思いました。二度ほど目がうるみました。(女 72才)
インドのカースト制の問題をまざまざと見せてくれた映画だった。貧富の差や女性への差別等々、まだまだ残っていることがわかった。最後に「だんな様」でなく、名前を呼べて、仕事の光も見えたのが、救いだった。(女 70才)
初めて来ました。新作ばかりを見ていましたが、思っていた以上によかったです。次回も楽しみにしています。(女 70才)
インドの田舎と都会の落差。貧富の差に目まいがしそうだった。しかし、携帯電話を持ってたから現代なのだ。青年が女性の自立を願ってミシンを贈るところに本気の愛情を感じた。青年は「都会では女性の自立を願っている男性もいる」という所にジェンダー平等の考えが及んでいるのに驚いた。インドもそうなのだ!(70代)
パルシネマで観て2回目です。あらためて、インドの国のカースト制度について考えさせられました。同じ人間なのに、夫に死なれて一生未亡人なんて、びっくりですね。自由に思ってる通りに生きていくということは本当に素晴らしいことですね。ラトナの賢さや勇気に拍手です。(女 67才)
『SIR』という原題と邦題とが、しっくり馴染んだ映画でした。(男 62才)
カースト制度の一端がわかればと思って見ました。期待通りでした。(男 60才)
インド映画気に入りました。日本と価値観が違う社会を身近に感じました。(男 56才)
シネリーブルで見損ねていたので、見ることができて良かった!初めてのインド映画。インドの日常の姿、市場の色鮮やかな布地やお祭り、ダンス、林立する巨大ビル、夜景、喧騒などが見られてよかった。未だにこのような身分差別があるのですね。未亡人の扱われ方に驚きました。逆境にも、凛とした主人公の姿も美しかった。素敵な映画をありがとうございました。(女 52才)
現実を乗りこえることは、困難のかたまりである。でも、きっと乗りこえられる。(男 52才)
ラトナはサビナに貰った腕輪を大切にしている。町では身につけられるが村では外さなくてはならないもの。ラトナは町で生きる人生を決められた人生ではなく選ぶ。腕輪は彼女の気持ちを後押しする。その時のサビナの言葉とともに。(女)
ラトナのような下層の身分の人たち、気持ち、生活習慣がわかって涙が止まらなかった。農村ではもっと厳しい身分差別があり、今回は大都会だったので、まだ救われた。(匿名)
コロナがおさまったら三宮の本場のカレーが食べたいです。そんな気持ちにさせてくれる映画でした。ラトナと美味しいヴィーガンカレーを作ってみたいです。(女)
すごく良い映画を見せてもらいました。ラトナの心の動き、制限された可能性の中で生きていく、希望を見つけようとする…、感動しました。(女)
インドのカースト制の一端を見せてもらえ、興味深かったです。(匿名)

淡々とした中に感情の起伏をかもし出していて、とてもストーリー性があった。(男 73才)
絶対的格差階層社会であるインドにおいて、「女性の自立」を目指して行こうという機運と、また、その困難さを誠実に描いていると思います。ただ、それを「禁断の恋」バナシに収斂させてしまったのは、物語を安っぽくしてしまったような印象があって違和感ありました。ラトナが最後に「アシュヴィン」と呼びかけるのは、単純な恋愛感情からだけではなく、ようやく彼女が「サー」=「旦那様」と呼ばなくてはならない「軛」(くびき)から放たれた、ということではないのか、と。そう考えないと、そのことの重みは判らないのではないでしょうか。(男 69才)
プロポーズ的告白をするアシュヴィンに“情婦になりたくない”と告げるラトナ。インド社会をしばる制度の中、それでも前に向かって自分の人生を追いかけるラトナの姿。インドでこの映画が上映(スター俳優が出演していないという理由でインドでは未上映)されたなら、インドの人たちは何を感じ、想うだろうか?(男 68才)
きびしい差別の中でも心を通わせることで人生がすばらしいものになる。人との繋がりが大切だと実感させられました。(男 67才)
あらためて「よく出来た映画」という感想です。ラストの「アシュヴィン」というラトナの声が忘れられません。なんと艶っぽい。身分ちがいの恋という昭和前半の邦画がよく取り上げた題材ですが、この映画では悲恋ではなく、二人が障害を乗り越えうる予感を持たせるのがとてもいいと思いました。一人一人の変化と成長が社会を変える原動力です。(男 64才)
最近のインド映画は素晴らしいものが多いですね。楽しいミュージカル的なもの以外にも社会的テーマで核心に触れて世界にも通じる映画が増えてきてうれしいです。今回の映画は何度も見ているので、今回も楽しめましたが、インドの社会背景を知らない人にはわかりづらいので、パネル展示があってよかったです。(女 60代)
もどかしさを感じながらも、変わっていくことの大事なことと、難しさを改めて知る。(女 59才)
階層社会は悲しいですね。
初回見た時の感想は身分ちがいの男女のラブストーリーだったが、二度目はラトナの「プライドの高さ」が印象に残った。川のほとり、屋上、象まつり、サリー、鮮やかな色と音もステキ。(匿名)

ストレートに怒りをぶつけられないモヤモヤ…。別れにあたって初めて、「アシュヴィン」と名前を呼ぶラトナ。もうご主人様(Sir)と使用人ではなく、自分自身も自立への一歩を踏み出せたから。ひとりの人間と人間として向かい合うことを許さない階級や因習という壁は、ばかばかしいが何故か厚そう。悲しいけれど、ラトナをさまざまに縛っているものを引きはがせないアシュヴィン(そしてラトナ)ならば、ラトナの選択は正しかったというしかない。(女 69才)