2018年4月例会『サーミの血』

 

解説

差別や困難に立ち向かいながら サーミ人少女が生きぬく姿を描く

 世界の映画祭でも絶賛の声が相次ぐ『サーミの血』は北欧スウェーデンの美しい自然を舞台に描かれるサーミ人少女の成長物語であり、差別に抗い生き抜く姿に心を打たれる感動作です。
 サーミ人とは、ラップランド地方、いわゆるノルウェー、スウェーデン、フィンランドの北部とロシアのコラ半島でトナカイを飼いならし、フィンランド語に近い独自の言語を持つ先住民族です。映画の主な舞台となる1930年代、スウェーデンのサーミ人は分離政策の対象になり、他の人種より劣った民族として差別されました。
 1930年代のスウェーデン北部山岳地帯で暮らすサーミ族の14歳の少女エレ・マリャが、当時の厳しい差別に直面しながら自ら人生を選び取ろうとする様子を通して、自己の民族的なアイデンティティを捨てなければならなかった時代を生きた女性の姿を浮き彫りにしていきます。
 同じサーミ族でも以前例会でも取り上げた、フィンランド―ロシア海岸地方で孤立して生活しているヒロインを描いた『ククーシュカ ラップランドの妖精』と異なって、トナカイ放牧を生業にして集団で助け合っている山岳部族の生活風俗も興味深く提示されていますし、ヘリコプターやバイクを用いて近代的になった現在の状況も活き活きと描かれています。

(物語)
 78歳のクリスティーナは、孫娘と共に息子の運転する車で妹の葬儀に向かう。それは少女時代に捨てた本当の名前、故郷、そして妹との再会の旅であった。1930年代、スウェーデン北部のラップランドで暮らす先住民族、サーミ人は差別的な扱いを受けていた。サーミ語を禁じられた寄宿学校に通う少女エレ・マリャは成績も良く進学を望んだが、教師は「あなたたちの脳は文明に適応できない」と告げる。そんなある日、エレ・マリャはスウェーデン人のふりをして忍び込んだ夏祭りで、都会的な少年ニクラスと出会い恋に落ちる。トナカイを飼いテントで暮らす生活から何とか抜け出したいと思っていた彼女は、彼を頼って街に出た――。

 物語の冒頭は、老いたクリスティーナが妹の死に際して息子や孫とともに故郷を訪ねるところから始まり、なぜどのようにして自分がサーミや故郷や家族を捨てたのかを回想していきます。クリスティーナは何故サーミ人を嫌うのか、サーミ人というアイデンティティを否定することで今の自分を維持していられるのだということがぼんやりと分かってきます。
 クリスティーナは少女時代エレ・マリャという名前のサーミ人でした。彼女と彼女の妹が寄宿学校で受ける仕打ちは差別としか呼べないものでした。そんな状況の中で利発なエレ・マリャが「この土地から出ていきたい」と感じたのも無理からぬことであったでしょう。彼女は決して体制を呪っているわけでも反抗しているわけでもありません。
 心情ではスウェーデンに憧れ、美しいスウェーデン青年に好意を寄せ、自分の未来を切り開きたいと願うだけです。その彼女の体験や行動を通してみると、当時のスウェーデン社会が異常事態に思えてくるのです。
 スウェーデンでは1886年トナカイ飼育法が成立し、トナカイ飼育をする者のみがサーミであるとしました。原則トナカイ・サーミのみサーミとして認め、数々のサーミ政策もトナカイ飼育をやめたサーミには適用しませんでした。これはサーミの内部で深刻な対立を生じさせ、トナカイ飼育をやめたサーミたちのスウェーデン社会への同化を促進させていくことになりました。
 エレ・マリャは街に出たことで、トナカイ飼育を辞めスウェーデン人に同化していくサーミ人となったのでした。

 本作は父親がサーミ人、母親がスウェーデン人のハーフであるアマンダ・シェーネルが創った映画ですが、見方によってはシェーネル監督自身のアイデンティティを探す旅のようにも見えます。シェーネル監督の祖父母はサーミ語を捨ててスウェーデンへ同化する道を選び、本作の主人公エレ・マリャ同様にサーミ語を使うこともサーミ人の親戚に会うことも嫌がるのだそうです。また監督は次のように述べています。
 「多くのサーミ人が何もかも捨ててスウェーデン人になったが、私は彼らが本当の人生を送ることができたのだろうかと常々疑問に思っていました。この映画は、故郷を離れたもの、留まったものへの愛情を少女エレ・マリャ視点から描いた物語です」「存命している老齢の親類の中には、自分もサーミ人なのにサーミを嫌う人がいます。つまりアイデンティティを変えたものと、留まったものの対立が、私の一族の中にあるのです」

 物語は、エレ・マリャの門出の前で終わります。クリスティーナとなったエレ・マリャはどんな人生を送ったのでしょうか。そんな問いが観客の心の中に残されます。出自を否定しアイデンティティを捨て去り、希望していた教職に就くことが出来たとしても、それが幸せだったかどうか、妹に最後の別れを告げた時、エレ・マリャのなかに後悔はなかったのでしょうか。エレ・マリャの大きな瞳は、彼女の強い意志や豊かな感情をたたえています。彼女は自分の意思でサーミとの決別を選びました。たとえその決断が彼女に痛みを与えたとしても、自分の選んだ人生を自分のやり方で切り開いていくのです。彼女の人生に幸多かれと願わずにはいられませんでした。
 少数民族であることの難しさと、アイデンティティと向き合う彼らが現代の実世界にも存在して苦悩や葛藤があるのだと思うと、それを知らない人に届けられるべきこの作品を見られたことが素晴らしいことだと思います。
 主演のスパルロク姉妹の醸し出す清廉な雰囲気も然ることながら、正確に再現されたサーミ民族衣装や歌「ヨイク」も見どころの一つです。サーミの服装、言葉がいろいろ見られる中で「ヨイク」という歌が一番印象深く感じました。エンドロールに挿入されるヨイクは余韻を感じさせ作品が引き締まるひとつの要素となっています。
 サーミ人の少女が抱える葛藤や選び取った人生。それをここまで描けたのはサーミ人の血を引くシェーネル監督だからこそ。ぜひ 繊細で力強いこの物語を例会でご堪能ください。
(陽)

ひとくち感想

◎大変よかった  ○よかった  ◇普通  ◆あまりよくなかった  □その他

ウプサラ大学構内、図書館、ウプサラ城、城壁など、懐かしい場所が現れ、大へんなつかしく感じた。(75歳 男)
解説にもあったが、日本のアイヌのことを連想した。(保護)隔離と同化は、まさにウラオモテの仕組みであることを感じた。少数者の苦労は田舎から出てきた私にも少しは分かる。北の風景は涼しく美しい。(73歳 男)
始めから終わりまでつらい思いで見ざるを得ない映画でした。多くの日本の人にアイヌの人のことを思いながら見て欲しいと思います。(71歳 男)
『サーミの血』は若い女性の家・共同体からの脱出と自立を描いている。先住民ということの差別は、日本でもアイヌなどにおいてある。必死の脱出と恋、都会での生活への馴染みにくさ。それは田舎から都会に出てきた私にもあった。必死の脱出ぶりが凄い! 又それを支援する母親にも心が熱くなった。故郷を捨てて妹の死によって久しぶりにその土を踏む。その思いはなんだったろうか。後悔ではないだろう。(70代 女)
先週69才になったけれど知らないことばかり。映画でいろいろのことを学ぶ。(69歳 女)◎少数民族、日本ではアイヌ民族。現代にはない、深い文化が失われないよう守っていかなくてはならないと思う。歌も忘れがたい。心にひびきました。(69歳 女)
「~の血」とはよく言われることですが、それがさげすまれ、あるいは自分をそこに縛りつけるものだとすれば、若い賢いエレ・マリャのようにそれを否定しもっと大きな可能性を求めて、とびだそうとするのは当然でしょう。しかし、自分を全否定することはできないもの。多様性を認め、いろんな血が混じり、人類は進歩していくのでしょう。(ちょっと重かったですね)(67歳 女)
いい映画でした。民族への差別ですが、民族の持つ文化は大切だと思います。(66歳 男)
妹の葬儀のため帰郷した女性の頬には深く皺が刻まれ眼も険しい。息子と孫娘は土地の人々や文化に親しみや興味を抱くが、彼女は一人ホテルに泊まる。雪が斑に残る北方の山々でトナカイを飼うサーミ人達。思春期の姉妹は、寄宿学校でサーミ語を話せば打たれ、研究者に裸にして調べられる。侮蔑した近隣の少年達に抗議した姉は、トナカイのマーキングのようにナイフで耳を傷つけられた。進学を否定された姉は半動物的扱いから抜け出すため、引き止める妹のベルトも取り上げ、スウェーデン人の街へ向かう。民族衣装は焼き、盗んだ服に着替え、偽名で入学する。学資が尽き無心に帰ると、母は相続分のトナカイは渡さないが、大事な形見の銀のベルトを持たせる。サーミ人の心を捨て、恥も捨て、家族も捨てて教師になり、スウェーデン人と結婚した女性に苦労はずっと続いたようだが、その間、人権意識の向上により故郷の人々の生活は随分改善されていた。姉のトナカイを守り続けた妹の顔は棺の中で穏やかであり、変わらなかった家族の愛は姉に悶えるような痛みを与え、彼女は藪を掻分け薄明の山を必死に登る。忌むべきものは差別される者の血ではなく、差別する側の無知と驕りだと思う。(63歳 女)
重いテーマの作品でした。できがいいとか悪いとかの点はつけられません。日本でもアイヌ民族の人の作品を見てみたいと思いました。沖縄の人々や在日外国人(ブラジル、韓国等)は見たことはあるのです。もちろん私たちも同罪ですが、「あの人たちってバイク乗りまわしてるのよね」って自分たちは「文明を満喫」しているのに、自分たちはベジタリアンだったりしてすごしていてすごく自分勝手だと思いました。(53歳 女)
「ラップ人」というだけでこんなに酷い差別を受けていたとは。自分が彼女の立場だったらお父さんのベルトを売ってでも学校に行っていたと思う。お母さんが彼女にベルトを渡したのは手切れ金代わりなのか? 「いつでも帰っておいで」という印なのか? 両方なのか? お母さんも複雑な気持ちだったに違いない。(56歳 男)
大変素晴らしい。驚きの映画である。スウェーデン・ノルウェー・デンマークという北欧三国のイメージとは全く異なり、少数民族への迫害の歴史があるということである。何んと言っても、この映画を製作し世界に紹介したアマンダ・シェーネル監督に敬意を表したい。サーミ人を父親に持つ監督が、この映画のために探し当てたのが主演のレーネ=セシリア・スパルロク(エレ・マリャ役)であるという。サーミ人への偏見と差別の実態を実に克明に表現していたと思う。スウェーデン人の役人・医師(?)は、顔の骨格を測定し、少女たちを裸にして写真に撮る記録作業を平然と行う。夏まつりに潜り込んで知り合い、恋に落ちた大学生のニクラスを都会の自宅に訪ねるが、彼の両親と彼も彼女を追い出す。寄宿舎の女性教師は、サーミ人の脳は「文明に適していない」と平然と述べ、進学への推薦状を書くことを当然のように拒否する。ものすごい偏見である。学生たちのニクラスのバースデーパーティー同席させられた彼女は、本名を名乗らされ、サーミ人の歌「ヨーク」を唄わされる。ヨークは、本当に悲しい旋律である。こうした厳しい偏見や屈辱にもめげずエレ・マリャは、サーミ人と決別するために、トナカイを育て生計をたてる道を捨て、父親が残した遺産の銀のベルトで授業料を工面し、大学で学び生活する道を選択する。いつも想うことだが、例会紹介は今回の映画を観たあとにも、十分理解を助けてくれるので有難い。
〈参考〉この映画は、1930年代のサーミ族に対する偏見と差別の中で苦難する状況を表したものだが、国連が「先住民族の権利に関する国際連合宣言」を採択したのは2007年のことである。
「先住民族の権利に関する国際連合宣言」2007年6月29日、国際連合人権理事会、47理事国の内、賛成30、反対4、棄権12、欠席3。2007年7月13日、61期国際連合総会 投票結果、賛成143、反対4(オーストラリア、カナダ、ニュージーランド、アメリカ合衆国)、棄権11(アゼルバイジャン、バングラデシュ、ブータン、ブルンジ、コロンビア、グルジア、ケニア、ナイジェリア、ロシア連邦、サモア、ウクライナ)、欠席34
すごい風景、すごい人生。圧倒されました。(女)

どこの国にも先住民と差別の問題が根強くあるのですね。アメリカインディアン、オーストラリアのアボリジニ、日本のアイヌ…。スウェーデンとサーミを正面から取り上げたことに敬意を表したい。(77歳)
昨日「DAYS JAPAN」5月号を読んだ後なので、ビルマ政府から迫害されて必死にバングラデシュへと逃れていくロヒンギャの人々とリンクして、差別、戦争で数億の人達が生死の境に置かれている。この世紀にも未来が見えないと思った。(72歳 女
少数民族の現実、考えさせられました。(69歳 男)
観ているのがつらく、胸くそが悪くなるようなラップ人への差別だが、クリスティーナは、それに敗けずに生ききったと思います。その代償として故郷を失いましたが。(68歳 男)
苛烈な差別環境から脱する為とは言え、自分の民族性・出自を捨て去るということの重み、凄み。「アイデンティティ」を否定することで、「アイデンティティ」を獲得するしかないという逆説的な、そして悲痛な、主人公の叫びのようなものにちょっと震えました。しかもそうやっていた彼女の老いたるエレ・マリャの到達した地平の、あまりの荒涼さにも身がすくむ想いでした。(66歳 男)
クリスティーナの若い女の子の関心や興味が許されないラップ人の生活。知らなかったことだらけ。民族を感じました。服をかえただけでうけいれられたこともびっくりした。(何で判断するのか)(64歳 女)
彼女はなぜサーミを捨てたのか。スウェーデン人達から差別されたことに対する怒りと悲しみからか、それとも差別されるようなサーミ自体を否定したい為か。そこは定かではないが、妹の葬式に帰ってくるまで、サーミであることを忘れ、懸命に生きてきたエレ・マリャの人生が、いかに張り詰めたものであったかは、画面から感じ取れた。ラストシーン、彼女がサーミの放牧場を見た時にアイデンティティを取り戻したと思う。わずか十数年のサーミとしての人生は、その後のスウェーデン人としての50年以上の人生よりも、深く刻み込まれている。人間とは不思議だ。(62歳 男)