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6月例会

HP用06月

あの日のように抱きしめて

 原題:PHOENIX
監督:クリスティアン・ペッツォルト
出演:ニーナ・ホス、ロナルト・ツェアフェルト
(2014年/ドイツ/98分)

愛と裏切り、深い傷を負った心の謎…アウシュビッツ後のドイツを繊細に描き出した物語

6月例会作品は、『東ベルリンから来た女』のクリスティアン・ペッツォルト監督とニーナ・ホス、ロナルト・ツェアフェルトが再びタッグを組んだ『あの日のように抱きしめて』です。フランスの作家ユペール・モンティエ「帰らざる肉体」の映画化で、原作の妻を失った男が彼女の財産を手に入れるため顔のそっくりな女を妻に仕立て上げるという物語を、戦後ドイツへと書き換えています。設定から『めまい』を連想させます。
当然、映画はフィルム・ノワール、少ないセリフだからこそ成り立つサスペンス。夫ジョニーは彼女がネリーだと気付くのか…そのサスペンスが物語を紡ぎ出します。

物語
1945年、ベルリン。ネリーは強制収容所から奇跡的に生き残ったものの顔に大きな傷を負い、再生手術を受ける。過去を取り戻すために夫ジョニーを探し出そうと奔走するネリーは、ついにジョニーと再会を果たす。しかし、ジョニーは顔の変わった彼女が自分の妻ネリーであることに気づかないばかりか、収容所で亡くなった妻になりすまして遺産をせしめようと彼女に持ちかける。夫は本当に自分を愛していたのか、それともナチスに寝返り自分を裏切ったのかを知るため、ネリーは彼の提案を受け入れることにするが・・・。

クルト・ヴァイルの名曲「スピーク・ロウ」がドラマ展開の上で、重要な役割を果たしています。およそジャズ演奏者・歌手なら、必ず演奏し唄ったはずの名曲。クルト・ヴァイルについては背景でも触れていますが、ベルトルト・ブレヒトと作った「三文オペラ」が有名です。彼は亡命後、アメリカに渡り、多くの優れたミュージカルを作曲しました。「スピーク・ロウ」は、1943年のミュージカル「ヴィーナスの接吻」のなかのナンバーで、エヴァ・ガードナー、ロバート・ウォーカー主演で映画化、『ヴィーナスの接吻』という邦題で公開されています。今作での「スピーク・ロウ」は、冒頭ではコントラバス、中程では、クルト・ヴァイル自身のピアノとヴォーカルで聴けます。もう一回、どこでどのように聴けるかは、映画を見てのお楽しみです。
この作品ほど印象的かつ効果的に音楽が使われている映画は多くないでしょう。ラストで、たぶん昔のようにジョニーのピアノ伴奏でネリーが歌う場面が秀逸。歌声に彼女の決意や想いが込められた見事な歌声です。
この作品の中では、主人公たちの感情や状況はそれほど説明されません。人によってはその描写を物足りなく感じる人もいるかもしれません。しかし、よく見ると実に繊細に描き出されているのです。例えば主人公が名前を聞かれる場面。ジョニーから名前を聞かれたネリーは「エスター」と答えます。エスターはユダヤ人女性に多い名前で、ジョニーはそれを聞いて「その名前は少なくなったね」とつぶやきます。こんなところにも戦争の傷跡がさりげなく描かれているのです。
ネリーの感情は揺れ動き続けます。微かな嬉しい出来事があるかと思うと、現実に突き放される。それらが少しずつ交差し、彼女の感情が揺れ動く様が丁寧に描き出されています。
ジョニーは妻ネリーを裏切り、収容所へ送ったことで生き延びてきました。だからでしょうか、色々な妻の面影や記憶に触れても認められない。それは、妻への負い目から認められないのか、またはかつての妻への愛情が微塵もないのか。一方、ネリーは心のささえにしていた夫ジョニーの存在を消すことができず、唯一、自分を思い愛し助けてくれたレネの助言も心の叫びも耳には届かず、ただひたすら元の自分に戻ろうとします。収容所を生きて出てきたのだから、彼女の心の傷は誰にも計り知れません。
ネリーと同じく収容所の経験があるレネのように見た目の傷がない人こそ実は乗り越えるための強さが一番必要なのかもしれません。必死で、約束の地イスラエルでの新しい生活を望んでいますが、唯一心を許せるネリーは自分より夫ジョニーを求めて振り向く素振りもない様子。寂しさと同時に、極限の孤独に耐えられなくなったのでしょうか。彼女が自ら死を選ぶ場面は心に突き刺さります。実際、彼女のように収容所での過去に飲み込まれてしまった人々も多かったことでしょう。
戦後、強制収容所から生きて帰った人たちはどんな気持ちで生き抜いたのでしょうか。トラウマの渦中、生き残ったことへの罪悪感、ナチスドイツへの憎しみ…一言では言い表せない感情が中で渦巻いていたことでしょう。ネリーであってもレネのような選択をする可能性はあるわけで、その時の状況によって人はどっちにもなってしまう可能性があることに思い至ると彼らが背負った過去の恐ろしさをひしひしと感じます。

この作品を観て、なぜネリーがジョニーにそこまで執着をするのか?そしてなぜジョニーは元妻だと気が付かないのか?ということが腑に落ちない方もおられることでしょう。
なぜネリーはジョニーという存在に執着するのか。もし彼がネリーを見分けることができたなら、彼女はネリーとして再生することができるからではないでしょうか。収容所では非人間的な存在となり、あらゆる人間の尊厳が奪われました。人が変わり、かろうじて生きているというだけで戻ってきた彼女にとって、ジョニーという存在が生きる希望となっていたのかもしれません。破壊された彼女の象徴として、彼女の顔が深く傷ついていると考えると納得できるのではないでしょうか。
収容所で自分自身を壊され失ってしまったネリーは自分がどんな人間であったのか理解することができない状態になりました。自分の好きなこと、心から笑うこと。唯一ジョニーに会うことで、彼女は以前の自分に戻ったと感じることができるのです。自分自身が破壊された人間は以前とは別人になってしまう。ましてや彼女は顔が深く傷つき、彼女自身の意思とはかけ離れ全く違う容貌へと変わっています。そんなネリーの状態を考えれば、ジョニーが彼女を認識できないのも致し方ないことだと思えます。
人間性を破壊され、バラバラになってしまった自分自身をつなぎ合わせようとする一人の女性の話と理解すると、この物語はまた違う輝きを帯びてくるのです。そう考えるとなんと深い話なのでしょうか。
人にはその人それぞれの辛い過去があり、振り捨てていかないと生きていけないのかもしれません。しかし、すでに喪失したと思った過去を、これからの人生の支えとして選ぶ事もあるでしょう。ネリーの選んだ人生をよしと思うかどうかは、見る人によって異なることと思います。ネリーの選択を、よし、と思いたい。ネリーがジョニーの演奏で歌う「スピーク・ロウ」。ネリーの歩んだ道のりを想って聞くと、より彼女の歌声が力強く聞こえてくるのです。
(陽)

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