2021年6月例会『幸福なラザロ』

解説

美しい瞳の持ち主は時空を超える

 この映画をどのように伝えれば良いのだろう。寓話というのだろうか。寓話とはそもそも何なのだろうか。
 「寓話は比喩によって人間の生活に馴染みの深いできごとを見せ、それによって諭すことを意図した物語」
 『幸福なラザロ』は、パルムドールを受賞した日本の『万引き家族』と共に、第71回のカンヌ映画祭で話題をさらい脚本賞を受賞した。
 その後も、各国の映画賞を受賞し、マーティン・スコセッシ監督など著名な映画人がこぞって絶賛し、メディアでも注目を集めた。
 本作は監督アリーチェ・ロルヴァケルが衝撃を受けた1990年代に実際に起こった不思議な詐欺事件に着想を得て作られている。1980年代初頭にイタリアで廃止された「小作人制度」を領主が小作人に知らせずに搾取し続けていたのだ。
 ラザロとは、「蘇りのラザロ」「復活のラザロ」として知られ、ゴッホ、レンブラント、カラヴァッジョ、ルドン等が描いているキリスト教の聖人である。
 ラザロの名前を持つ主人公を物語の中心におき、我々日本人には分かりにくい作品とも思えるが、彼が持つ不思議な癒しの空気感が画面を覆っていくと共に、ストーリーにのめりこんでゆく魅力的な映画だ。

隔てられた人々
 イタリアのインヴィオラータとよばれる小さな村は大洪水の名残を受け、人々は深い峡谷で外と隔てられた生活をしていた。
 タバコ農園での収穫のほとんどを公爵夫人に搾取され、監督官二コラによって借金と共に管理され村民たちは逃げ出せないようになっていた。
 村社会は、その中でお互いに個人の自由も奪う。若い恋人たちが、村を出ようとすると村人たちに阻止された。
 ラザロは、村で働き者として知られる若者だ。美しい瞳とあどけない顔立ちの持ち主だが、肉体は逞しく、どんな仕事でもいとわない。何度「ラザロ!」と呼ぶ声が聞こえるだろう。  
 その無垢で無欲な態度から、逆に村人たちは彼を見くびった。若い女性は彼を疎んだ。
 公爵家でメイドとして働く村娘アントニアから夫人の暮らしを知るが、何の感慨もないラザロ。
 公爵夫人の美しい息子タンクレディは、いつも住んでいる都会から田舎に来るや否や退屈する。
 そして、自ら事件を起こしてしまう。善良なラザロを巻き込んで。
 その出来事から、前代未聞の事件は発覚していく。

時をへて、変らないのはラザロだけ
 村の存在が世間に知れてから年月が経ち、現在では世間の人々は、当時のスキャンダラスな出来事も記憶にはない。
 忘れ去られた村人たちは、厳しい現実社会に放り出された。
 公爵夫人は搾取するだけではなく、村人たちから外からの情報と共に、教育の機会を奪っていた。無学な彼らが、良い職に就けるはずもない。

社会に適応できないかつての村
 人たちは、都会の片隅で力を合わせて生きていた。そして、それぞれに老いていた。かつては幼かった子どもも、美しかった娘も、すでに疲れたように、年を重ねていた。この時代、この地では、逞しく、汚れなくては生きてはいけないかのように。
 ラザロが、止まった時から放たれ、再び村人たちの前に突然現れる。
 ラザロは、彼らを懐かしみ、信じる。そして、彼らを助ける。
 その優しさはタンクレディや公爵夫人にまで向けられる。

私たちが知らないイタリア
貧民の食事からスロー・フードへ
 イタリアには、1982年までメッサドリアという小作人制度があった。「メッサ=半分」と言う通り、収穫の半分を土地の持ち主が得る。
 当時のイタリアの農村の様子を高齢の主婦が語る記事を、ブログで見つけたので紹介する。
 「冬のための備蓄の食べ物が少なくなる早春、人々は野で採れた野草をよく使ったわ。パンやパスタになる小麦は貴重なので、栗やそら豆の粉を練りこんだりもした。
 家畜を解体する際は、村にある一つの屠殺場で人々が力を合わせた。精肉は、地主や神父が持って行くので、自分たちは血や内臓で色々な食べ物を工夫して。豚は捨てる所がないので、血でお菓子やおかずを作った。今の、ヨーロッパ(EU)の規定では、どんなに小さな生産者でも家畜を解 体する場所を持たなければならない。時代は変わったの。
 昔の農業制度が良かったとは決して思わない。農民はみな貧しかった、男女差別もひどかった。でも、クチーナ・ボーヴェラ(手元にある限りある食材を活かす食事)は、とても素敵なものだった。」
 そんな暮らしが、何世紀も前ではなく50年にも満たない過去に存在していたのだ。明るく陽気な人々が住む、おしゃれなイタリアのイメージとはほど遠い真実だ。
 時を経て、食材の安全性やエコロジーへの関心が大きくなり、地産地消の大切さを改めて知った人々がスロー・フード運動を通して、イタリアの食文化の原点の一つとして当時の食生活が見直されている。

変貌するヨーロッパと世界の中で
 1989年のベルリンの壁の崩壊、 冷戦時代の終結、ヨーロッパには大きな変化が訪れようとしていた。
 それは、世界を巻き込んで輝かしい未来の到来かと思われた。
 悪とされた強権的な社会主義がなくなった後の混乱や、各国で勃発した大小合わせて様々な紛争や諍い。
 又、新しいテクノロジーは根本的に人々の生活を変えようとしていた。
 映画は、同じ時代、そんな事を何も知らず、狼が出るような渓谷で暮す人々の姿を写し出す。
 ある意味では堅苦しく、貧しい共同体の中で、人々が助け合って生きていた時代には、手元にあるお金は生活のため以外に意味はなかったのかもしれない。
 前半の美しくも厳しい田園風景と後半の殺風景な都会の映像の対比。 
 農作業中に一杯のワインを分け合った農民たちは、今では人を騙すことに罪悪感がない。
 新自由主義のもとに、貧富の格差はますます広がり、人々に心の貧しさまで植え付けていったのだろうか。
 かつて、農民を支配していた人物は、今は移民労働者をコントロールしている。搾取していた側の価値観は何も変わらない。
 自由となっても、搾取されていたにも関わらず、公爵や教会を求める元村人たちの心が切ない。
 民衆にとってのロイヤルやセレブリティの存在の意味や、宗教とは何かについても考えさせられる。
 ラザロとはいったい何者なのだろうか?
 何も欲しがらず、人々のそばにそっといる。
 人に言われれば、そのようにする。
 人を恨んだり、憎んだりしない。どんなに蔑まれても。
 善人なのだろうか? ただ愚かなだけだろうか?
 一つ一つのシーンに、意味があると想像するが答えは早々には出ない。
 しかし、人を寄せつけないような難解な作品では決してない。少し時間が経ってから考えることは、面白いかもしれない。
 観ている間は、ただラザロから目が離せない。
(宮)