市民映画劇場11月例会(第559回)『12か月の未来図』
 原題:LES GRANDS ESPRITS
 監督:オリヴィエ・アヤシュ=ヴィダル
 出演:ドゥニ・ポダリデス
 2017年/仏/107分

生まれ育った地域・国に関わらず自分の未来を

 少し分かりにくい作品タイトル『12か月の未来図』。誰のためのどんな未来を描いているのだろうか?
 映画の舞台はフランスのパリ郊外。荒れ果てたアパートと町の風景から明らかにここは貧しい地区だとわかる。
 父親を有名な小説家に持ち、自身もパリでも有数な進学高校に勤める主人公の国語教師フランソワ・フーコー(ドゥニ・ポダリデス)は自身の教育省関係者に対するある発言からパリ郊外の荒れ果てた中学校に赴任するはめになる。

教師フーコーの思いと現実
 騒々しい教室、話を聞かない生徒、覚えにくい移民の名前等々。前任校と180度違う環境の中、教師フーコーと生徒たちの一二か月が始まるが…。
 新しく赴任した中学校で同僚の教師たちの誰もが授業がうまく運べないとの嘆きを聞いたフーコーは自分の授業方針を前任の進学校と同じように貫こうとし、生徒たちと衝突する。
 同僚のパーティーに誘われてもその生真面目な性格から溶け込めず、授業に悩む若い女性教師の姿が気になりながらも声をかけることをためらう。
 それでも生徒たちに学ぶことの楽しさを教えようと授業を工夫するフーコーがいる。生徒に誠実に接し、見捨てないという思いを行動で示す。

「レ・ミゼラブル」を教材とした思い
 フーコーは生徒たちにビクトル・ユーゴーの小説「レ・ミゼラブル」を教材として与えます。何故だったのでしょうか?
 この小説は単に貧困によって虐げられた弱者ばかりでなく、貧困が生み出すあらゆる悪を、被害者も加害者もひっくるめる形で描き出した様々な事象の中に生徒たちが日常的に感じている自分たちの今に共感できる部分が沢山含まれているとの思いからだったのではないのだろうか。
   
生徒を信じる
 人間は子供でも大人でも誰かから期待されたり、褒められたり、自分の存在を認めてくれる存在が身近にいれば生きる上での大きな力になり得るものだ。
 フーコーは気がかりな生徒セドゥにたいしても彼を切り捨てようとせず、声をかけ根気よく話を続けていく。
 カンニングしたことを咎めず、テストの結果を逆に褒めてセドゥに自信を与える。それが生きる上での自信にも繋がるとフーコーは信じているからだ。
 そこには遠足先のベルサイユ宮殿での生徒のいたずら心を許すことが出来ずにセドゥ達を指導評議会にかけ退学させようとする学校の対応とは異なる、真に生徒を思う教師の姿がある。
   
フランスと「郊外問題」
 1970年代の石油ショック以降、フランスで「郊外問題」は大きな社会問題となった。景気の低迷の影響で失業した多くの移民が都市郊外の低所得者用住宅に住みつくようになった結果、暴動、治安の悪化、教育水準の低下などの問題を生み、その事がフランス社会に暗い影を落とすことになった。
 この映画はまさにそういう社会的背景をベースに教育と貧困問題を正面から捉えた真っすぐな作品だ。
 出演者も大人は全て俳優、それ以外の子供たちは現実に学校に通う生徒たちを起用し作品にリアリティーを持たせている。
    
監督の映画製作への思い
 この作品を制作するにあたり監督オリヴィエ・アヤシュ=ヴィダルは、取材のため二年間、中学校に登校し500名の生徒、40名の教師たちと一緒に学校で過ごした。また、生徒と触れ合う一方でセドゥのように問題を起こした生徒の処分を決める学校評議会や職員会議にも参加し、フランスの郊外問題が色濃く表れている学校の現実を丁寧に調べて作品に投影しようとした。
   
この作品を貫くもの
 フランスの重い社会問題をテーマにしながら映画が重くならない要因は全編をつらぬくユーモア精神ではないのか。
 どことなくクスクスと笑える場面や生真面目な教師と落ちこぼれ生徒たちの行動と言動の対比に思わず頬がゆるむ。
 セドゥはじめ落ちこぼれクラスが変わり始めると同時に画面から感じる温かな空気。コーラス発表会では生徒も教師も保護者も同じ思いに包まれる。進学校勤務時代には感じることのなかった子供たちの目の輝きに心動かされる教師フーコーの姿。
   
移民大国フランスと我が国の今
 フランスの中学校の科目は11あるが映画でも教育の基礎として母語フランス語の大切さをさりげなく描いている。第二次大戦後、沢山の移民を労働力として受け入れてきたヨーロッパ、とくにフランス、ドイツでは移民教育の基本は母国語の習得が第一であり今も変わらない。
 国連経済社会局の定義によれば、移住の理由や法的地位に関係なく、定住国を変更した人々を国際移民とみなすとしている。
 我が、日本でもこの定義に照らせば国内に住む移民は250万人ちかくになると言われている。これは名古屋市の人口とほぼ同じの人間が移民として国内に住んでいるということだ。
 これだけ多くの人々が日本を目指し、日本で暮らしている現実があるのに我が国はフランスのように母国語教育を充実させるという大切な施策を他人事のように考えている、そんな気がしてならないし、多くの人材を受け入れる本気の覚悟が感じられない。
 この作品がフランスの希望を描けたように我が国でも同じように子供たちの明日の希望を描く下地があるのだろうか。
(スゥオン)