機関誌9月号 通巻778号より抜粋

市民映画劇場10月例会(第534回)
鏡は嘘をつかない
 原題:LAUT BERCERMIN

 監督:カミラ・アンディニ
 出演:ギタ・ノヴァリスタ
 2011年/インドネシア/100分

鏡で魅せるインドネシアの神秘的な世界
 10月例会『鏡は嘘をつかない』はインドネシアのスラウェシ島の東南に浮かぶワカトビと呼ばれる海域を舞台に、そこで生活を営むバジョ族の母娘を中心に描かれる。
 国立公園となっている島や島を取り巻く絶景が美しい。カメラが海に潜ると、色々な種類の珊瑚があり、大小様々な魚が群れをなしている。それはもう息をのむ美しさである。現地にいかなくても映画でこの景色を堪能できるのがうれしい。ずっと海の景色を映していてほしいと思ってしまうくらいだ。

重要な役割の鏡
映画はタイトル通り鏡が重要な役割を果たす。海の浅瀬に、高床式の家がある。かつては、あちこちの海を、島から島に渡り住み、いわばジプシーのように生活していたバジョ族は、いまは定住しつつある。バジョ族にとって鏡は真実を映す神聖なものとされ、失せ物を探したり人を探す際に用いる文化的な道具である。監督によると「鏡は常に女性と結びついています。少女たちは、鏡を見ることによって、成長していくのです。また、私にとって鏡とは、希望のシンボルであり、自らを映し出すものであり、また探求するものでもあります」とのことである。

母と娘とバジョ族の物語
 10歳の少女パキスは、漁に出たまま戻ってこない父の無事を願い、いつか鏡に父が現れるよう祈っている。母親のタユンもまた夫の死をいまだ信じられず、顔を白く塗り自らの不安を隠している。そこに、イルカの研究をするためジャカルタからトゥドという青年が村にやってくる。パキスは青年に少し興味を持ちながらも毎日鏡に祈って父を待っている。映画の物語は少女が自らの文化や未来に対して抱く不安を描いている。父親の旅立ちは、彼女の故郷である海や家に対する疑問を彼女に抱かせる。
 この母娘を通して、海で生まれて海で死ぬといわれる漂海民バジョ族の暮らしが丁寧に描かれる。浅瀬にたてた高床式の小屋で、豊かな海の恵みを受けながら生活する村民たちの描写は、新鮮で興味深い。バジョ族の十歳の少女パキスを演じたギタ・ノヴァリスタは、撮影当時12歳。現実のバジョ族である。感情の起伏の激しい年頃の少女を、少ないセリフで表現、過不足のない演技が好ましい。またそれを取り巻く二人の少年がいい味を出している。パキスに思いを寄せる少年と中盤から姿を見せるめっぽう歌のうまい少年とのかけあい、のびのびとした演技には思わず笑ってしまう。母娘の深刻な物語に程よいアクセントをつけている。この少年たちも地元バジョ族の出身でプロの子役ではないというから驚きである。

監督について
 監督は、カミラ・アンディニという、まだ30歳くらいの若い女性だ。父親が、インドネシアで有名な映画監督のガリン・ヌグロホである。ガリン・ヌグロホは、1998年の第11東京国際映画祭で上映された『枕の上の葉』で、審査員特別賞を受けている。父ガリンは、娘カミラのために、『鏡は嘘をつかない』では、プロデューサーを務めている。監督はすでに、インドネシアの珊瑚礁保護のためやウミガメと珊瑚礁をテーマにした、ドキュメンタリー映画を撮った実績がある。本作が長編劇映画のデビューになるが、映画全体のトーンがドキュメンタリー・タッチでリアル、その表現が手だれなのもこの経験によるものだろう。

荒波に抗いながら
 ここワカトビにはまだまだ多く残ってはいるが、自然は徐々に侵されつつある。温暖化、天然資源の開発などで、確実に様変わりを見せている。映画のなかでも、近い将来への不安があちこちに散見する。ことさら声を大きくして叫ばないが、ここにも文明の荒波が押し寄せつつあることを暗示する。海とともに生きるバジョ族にとって、荒波は文明だけではない。大雨が降るし、海で漁船が遭難する。現実の海の脅威が、連綿として存在する。村の人たちがテレビで東日本大震災の映像を見ているシーンが出てくる。他人事でない自然がもたらす脅威に驚嘆しているのだろう。興味深い場面である。

嘘をつかない鏡
 鏡は、正反対だが正直に像を結ぶ。ここに住む人たちの現実を鏡は正像として提示する。タイトル通り嘘はつかないのである。現実はいつでもどこでも厳しい。それでも生きていかなければならない。たとえわずかの希望しかなくても、いささかの勇気があれば何とかなる。海が変化するように、パキスの人生もまた、その成長につれて変化するはずである。パキスの独白で父の言葉がたびたび挿入される。「小さい魚が長い旅を経て、大きい魚になる」、「魚のように、自由に生きろ」と。
 浅瀬に立つ家に住み海とともに生きる人たちの人生にもドラマがある。魚網を編む老人や魚介類を売る近所の女性たちのことも丁寧に描かれている。人に想いを寄せることがある。喜怒哀楽がある。嘘をつかない生活がそのまま表現される。

生きた映像美
 監督は続いて「インドネシアは多島海の国なので、海が、国土のほとんどの領域を占めています。インドネシアの海岸の生活は、驚きに満ちています。インドネシアの海の豊かさは、私たちの生活や文化にとって、マイルストーン(=重要な起点)と成りえます。私たちはインドネシアを“祖国=水の国”と呼ぶのです。それでもなお、私たちはインドネシアを農業国として捉えているため、土地が重視されています。この映画は、インドネシアの第二の部分である、“水”の世界とその内容について描きました」と語っている。
 この思いを込めた映画の最大の魅力は雄大な自然の美をカメラの中に創り出したことである。不意に湧き起こる白い雲、光輝くさざ波、西日が燃える見事な夕景とそれを逆光でとらえた影絵のような世界。もちろん前筆の水中撮影も十分堪能できる。またバジョ族の人々の海の上に建てられた簡素な住居や、小学校の校舎なども印象に残る。数えあげたらきりがないほど生きた映像美の世界を映し出している。

希望という視点
 映画は、現代の環境問題を厳しい眼差しでとらえる。インドネシアでも世界の他の国でも、気候変動は年々予測不可能になってきている。こうした変化は現在、多くの国の漁師たちの生活に葛藤を生み出している。海は彼らに対してもはや昔のように友好的ではないため、漁師たちは前のように海をよむことが出来ない。さらに、天然資源の開発により漁師たちの生活を支える資源も減少している。
 そうした現状の中でも、この映画はインドネシアの海を希望という視点で描こうとしている。ワカトビのバジョ族は海に近い場所で伝統や土地に根づいた知恵を用いて海を守っている。この人たちがインドネシアの海域に存在する意味は大きい。問題や葛藤は多いがその中で希望を持って生きている。少女パキスも自らの文化や未来に対する不安が徐々に薄れていく。パキスが木の枝に飾った鏡から反射する光が切ないほど美しい。

 またひとつ、知られない世界への案内ができた。バジョ族と共に至極の100分を楽しんでください。
 (飯川)