機関誌5月号 通巻773号より抜粋

原題:LA TÊTE HAUTE
監督:エマニュエル・ベルコ
出演:カトリーヌ・ドヌーヴ
2015年/フランス/119分

少年の更生を見守り続ける物語
この映画の邦題は「太陽のめざめ」だが、フランス語の原題は「LA TÊTE HAUTE」(ラテット・オート)。訳せば、「前を向いて」または「胸を張って」という意味になるだろうか。このフランス語の原題の方がこの作品が描こうとするテーマをよく表している。
 この映画の中心はフランス映画界を代表する女優のカトリーヌ・ドヌーヴとフランス映画界期待の新星、ロッド・パラドの二人だ。時には厳しく、時には温かく、ロッド・パラド演じる心に傷を抱えた一人の少年マロニーを見守り、彼を一人の人間として更生させようとするドヌーヴ演じる少年裁判所判事フローランスと、更生しようともがく少年の物語だ。非常にセリフの多い映画でまるで一冊の本を読んでいる気になってくる。
 アルゼンチン生まれの脚本家マルシア・ロマーノと共に監督も脚本作りに参加し、フローランス判事、少年マロニーをはじめ、出演者たちのキャラクターを正確に描きこんでいる。少年マロニーを演じたロッド・パラドは木工関係の職業訓練校時代にこの映画のオーディションを受けた。映画の後半には、そんな場面も出てくる。
一方のドヌーヴは少年裁判所の判事を演じるにあたり、実際の裁判所に何度も足を運び、現場の人たちの思いを自分の役に引き寄せる努力をしたらしい。
 彼女を見ていると、年を重ねることも楽しいことだと思わせてくれる。今も愛される名作『シェルブールの雨傘』から半世紀にわたり、第一線で活躍し、淑女から悪女までどんな難しい役も魅惑的に演じてきた。神戸映サでは1985年の例会作品『終電車』以来、二度目の例会作品登場となる。大スターとなってからも、多くの若手監督の映画に参加。その映画への深い思いに敬意を表して、2008年にはカンヌ国際映画祭からカンヌ記念特別賞が贈られた。マロニー役のロッド・パラドの他、教育係のヤンには『ピアニスト』のブノワ・マジメル。マロニーの母親役には『ゲンズブールと女たち』のサラ・フォレスティエ。マロニーの恋人テス役にはディアーヌ・ルーセルなど若手女優が顔をそろえた。

ストーリー
 家庭裁判所で子どもを救う少年担当判事フローランス(カトリーヌ・ドヌーヴ)はある日、若い母親フェランドに置き去りにされた6才の少年マロニーを保護する。それから10年後、マロニー(ロッド・パラド)は非行を繰り返し、裁判所に呼び出され、フローランス判事と再会する。マロニーは反抗的な態度を見せる一方で、母親の責任を問われると必死に母親をかばう。実父を4才で亡くし、継父に見捨てられた少年にとって自分勝手な母親でも大切な家族だった。フローランス判事は温情をみせるが、マロニーはすぐに車強奪事件を起こして審問が開かれる。検事は少年院送りを主張するが判事のフローランスは自由に過ごせる更生施設に少年マロニーをおくる。そして新しい教育係には、かつてフローランス判事の下で更生したヤン(ブノワ・マジメル)が付く。
 山のふもとの更生施設で多くの指導員たちの根気強い教育やはげましにより、少しずつ変わっていくマロニー。しかし、中学への再入学の面接官の否定的な言葉にキレてしまう。やけになり行ったクラブでマロニーは指導員クロディーヌの娘テス(ディアーヌ・ルーセル)と出会い、不器用な恋に落ちていく。

マロニーと母親、そしてテス
 この映画では少年マロニーの年齢が6才から一気に10年後に移り、いわゆる思春期を彼がどのように過ごしたのかは描かれてはいない。誰もがそれまで依存していた大人たちから、初めて自分の力で自立という道を歩み始める入り口に立つ。何かモヤモヤしたもの、孤独感、不安な世界の中で、新たに依存する場所、人を探し始める。しかし、彼にはそんな場所も友達も探せず、実母や継父を含めた家族に反抗しながらも、いつも母親の居場所に帰り着く。ただ母親に甘えたい、愛されたいという一心から。母親もまた、二人の子どもを持ちながら、子どもを育てるという仕事を放棄し、自立という道を歩めず、一方でマロニーに依存することで心の安らぎを得ている。そんな中、マロニーが唯一、心を許せたのは同年代のテスだった。

少年たちをとりまく人々
 少年マロニーと10年ぶりに再会した判事はマロニーに自分の犯したことの重大さを認識させる。ある家裁調査官の言葉によれば、非行に走った子どもたちには、面接時の最初に“You are not ok”だと思いっきり言ってやる必要があるという。「非行者としての自分」を認めさせることが、子どもたちを再生させるための第一歩だというのだ。
 映画の中で指導員がマロニーに手紙を書かせることも、今までの人生を文字にすることにより、自分がなぜ今、ここにいるのかを再確認させている。ペンの持ち方も映画の前後ではずいぶんと違っている。それはマロニーが更生への一歩を歩み始めた証ともいえる場面だ。更生施設での指導員は少年たちを一人の人間として扱う。非行少年という言葉の持つイメージが作り出した社会で生きてきた彼らにとって、自分を一人の人間と扱い、認めてくれる。どんな諍いもまずはお互いの意見を聞くところから始める指導員。自分の話を聞いてくれる存在が身近にいるということが彼らの心を開いていくのだと思うのだ。
 この映画で私が好きなシーンは何人も寄せつけなかったマロニーが嬉しそうに笑うシーン。映画を見ている人には当たり前の経験かもしれないが、マロニーが16才と17才の誕生日にケーキを前にみんなから祝福され、笑顔がこぼれるシーンには、彼がどんな寂しい人生を送ってきたのかが良く表れている。

大人と子どもの関係は今
 「子どもは大人が守り育てる」というこれまで自明の理と言われたことさえも、今は揺らいでいる。もの言わぬ大人、貧富や経済格差の拡大、貧困の連鎖、セーフティネットから落ちこぼれる子どもたち。それはとりも直さず、今を生きる大人社会を反映している。様々な理由から非行や犯罪に走る子どもを捉えたセンセーショナルなメディア報道もあり、その結果が一部では少年犯罪の厳罰化という流れを作り出している。「犯罪を犯した子どもの親、教育関係者はテレビの前に引きずりだし、市中引き回しのうえ打ち首にすべきだ」という極端な発言をする議員もいる。この映画の中のフランスの対応とのあまりの違いに驚かざるをえない。勿論、日本でも非行を犯した少年を更生させるため、多くの人々が日々、現場で頑張っているという現実もある。しかし、社会の中で子どもを育てていこうという従前の考え方が社会から減りつつあるのも事実だと思う。
 私たちはこの『太陽のめざめ』という映画を通じて何を想うのか。想いは人それぞれ違うかもしれない。しかし、私たちの周りにも沢山の理解されることのないまま、世間の誰からも顧みられない多くの少年マロニーが今も存在していることもまた事実だと言わざるを得ない。そして「人間の過ちは人間が真剣にかかわることでしか治せないという思い」がこの映画と共に強く残る。(水)

参考文献
「「非行」は語る。」(藤川洋子 新潮選書)/「思春期の危機をどうみるか」(尾木直樹 岩波新書)/映画『太陽のめざめ』パンフレット